「学力低下」はどこから
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題:「学力低下」はどこから
記憶違いかもしれませんが、あるサイトで「合格という結果を出せなければ勉強に意味は無い」という趣旨の文を読み、思わず顔をしかめたことがありました。今の時代に「教養主義」を説いたところで、笑われればまだ良いほう、下手をすれば「?」という顔をされるくらいのことは、私も承知しています。努力それ自体が目的化するのでは本末転倒と言いたいのも分かります。
しかし「勉強イコール入試または資格試験のための準備」「合格できなければ勉強は無意味」などというつまらぬ事態に、いつからなってしまったんでしょうか? 十五年戦争(第二次大戦)直後、岩波文庫が発刊されると多くの人々が争うように買い求めたといいます。これなど、無意味の極地というところでしょう。知的障害者が勉強することについては、いったい何と言うつもりでしょうか。
学生の学力が最も高かったのは大学闘争(いわゆる「大学紛争」)のころで、大学から「反体制」が消えるに従って、基礎学力自体がどんどん下がっていったと、どこかで読んだことがありました。その時は「そんなものかね」くらいにしか思わなかったのですが、どうやらこれはさらに深刻化しているようです。実利効率主義のみで勉強を評価するのならまだしも、試験や資格を絶対視、いわば神とあがめ、合格や高得点という神の賜物(たまもの)を得られなければ意味無しというのでは、ほとんど新興宗教と変わりません。それもえらく浅薄な。
最近「学力低下」を憂える声をしばしば見かけますが、どうやらそれを口にする者自体が、すでにかなり「学力低下」していると思えてなりません。当の本人がそれをまるで自覚していないのですから、実に困ったものですが。
(私自身にも当てはまりそうですので、人ごとではありませんね。)
あわて者のために書いておきますが、私は「反体制」になれば学力が向上するなどと短絡的なことを言いたいのではありません。そうではなくて、「根本から疑う」「否定をへて再度創る」ことも、学ぶ意欲につながるのでは、と思うのです。外から与えられる絶対的な存在(国家、神など)の価値を疑い、否定するのなら、自分でその代わりになる「思想」(広い意味です)を獲得しなければなりません。
もちろんいつの時代でも、人は楽をしたがるものですから、例えば一時期一部で共産主義が脚光を浴びたこともありました。マルクスに寄りかかってしまえば絶対は保証させる、とでも言うべき安易な側面が、当時かなり存在したのも事実です。しかし、「テストの点稼ぎ以外に勉強無し」などという底の浅い勉強観でこれを笑うのは、「目●鼻●を笑う」の類いでしかありません。
「国家」や「伝統」、「自分の実感」などを理屈抜きに正しいと決め込み、今の自分の上にあぐらをかいていれば、勉強そのもののとらえ方も卑近になってしまいます。卑近でも結果が出ればまだしもですが、例えば英語力はどうなっているでしょうか。ちょっとネットを見渡しても英語学習に関するサイトはそれこそ無数にありますが、全体としてどれだけ英語の力が向上したでしょうか。
杉田玄白らは、勉強法を説くサイトどころか勉強の手段自体がほとんど無いなかで、それでもとにかく翻訳書『解体新書』を刊行してのけました。彼らは別に「反体制」であったわけではありませんが、「自分の知っている医学は間違っている、このままではいけない」という強い思いが、原動力となったのでしょう。
むろん誰しも試験に落ちたくないですし、試験ばかりが勉強ではないという言葉が、苦しいことからの逃避の言いわけとして使われ勝ちなのも承知しています。実利効率主義もひとつの立派な考え方ですが、テストという外部からの評価ばかりによりかかっていると、自分の勉強力そのものを、いつの間にか失いかねません。
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記憶違いかもしれませんが、あるサイトで「合格という結果を出せなければ勉強に意味は無い」という趣旨の文を読み、思わず顔をしかめたことがありました。今の時代に「教養主義」を説いたところで、笑われればまだ良いほう、下手をすれば「?」という顔をされるくらいのことは、私も承知しています。努力それ自体が目的化するのでは本末転倒と言いたいのも分かります。
しかし「勉強イコール入試または資格試験のための準備」「合格できなければ勉強は無意味」などというつまらぬ事態に、いつからなってしまったんでしょうか? 十五年戦争(第二次大戦)直後、岩波文庫が発刊されると多くの人々が争うように買い求めたといいます。これなど、無意味の極地というところでしょう。知的障害者が勉強することについては、いったい何と言うつもりでしょうか。
学生の学力が最も高かったのは大学闘争(いわゆる「大学紛争」)のころで、大学から「反体制」が消えるに従って、基礎学力自体がどんどん下がっていったと、どこかで読んだことがありました。その時は「そんなものかね」くらいにしか思わなかったのですが、どうやらこれはさらに深刻化しているようです。実利効率主義のみで勉強を評価するのならまだしも、試験や資格を絶対視、いわば神とあがめ、合格や高得点という神の賜物(たまもの)を得られなければ意味無しというのでは、ほとんど新興宗教と変わりません。それもえらく浅薄な。
最近「学力低下」を憂える声をしばしば見かけますが、どうやらそれを口にする者自体が、すでにかなり「学力低下」していると思えてなりません。当の本人がそれをまるで自覚していないのですから、実に困ったものですが。
(私自身にも当てはまりそうですので、人ごとではありませんね。)
あわて者のために書いておきますが、私は「反体制」になれば学力が向上するなどと短絡的なことを言いたいのではありません。そうではなくて、「根本から疑う」「否定をへて再度創る」ことも、学ぶ意欲につながるのでは、と思うのです。外から与えられる絶対的な存在(国家、神など)の価値を疑い、否定するのなら、自分でその代わりになる「思想」(広い意味です)を獲得しなければなりません。
もちろんいつの時代でも、人は楽をしたがるものですから、例えば一時期一部で共産主義が脚光を浴びたこともありました。マルクスに寄りかかってしまえば絶対は保証させる、とでも言うべき安易な側面が、当時かなり存在したのも事実です。しかし、「テストの点稼ぎ以外に勉強無し」などという底の浅い勉強観でこれを笑うのは、「目●鼻●を笑う」の類いでしかありません。
「国家」や「伝統」、「自分の実感」などを理屈抜きに正しいと決め込み、今の自分の上にあぐらをかいていれば、勉強そのもののとらえ方も卑近になってしまいます。卑近でも結果が出ればまだしもですが、例えば英語力はどうなっているでしょうか。ちょっとネットを見渡しても英語学習に関するサイトはそれこそ無数にありますが、全体としてどれだけ英語の力が向上したでしょうか。
杉田玄白らは、勉強法を説くサイトどころか勉強の手段自体がほとんど無いなかで、それでもとにかく翻訳書『解体新書』を刊行してのけました。彼らは別に「反体制」であったわけではありませんが、「自分の知っている医学は間違っている、このままではいけない」という強い思いが、原動力となったのでしょう。
むろん誰しも試験に落ちたくないですし、試験ばかりが勉強ではないという言葉が、苦しいことからの逃避の言いわけとして使われ勝ちなのも承知しています。実利効率主義もひとつの立派な考え方ですが、テストという外部からの評価ばかりによりかかっていると、自分の勉強力そのものを、いつの間にか失いかねません。

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